太宰を感じる旅「鎌倉編」
太宰を感じる旅を始めてから第1回目の「三鷹編」に続き、今回は第2回目として、「鎌倉編」を散策してきた。
主に向かった先は、小動神社と、その下にあるであろう岩畳。そこから程なくいった場所にある、恵風園という病院。これらはみな、太宰を語るうえでの外せない重要なターニングポイントになる場所で、いちどこの目で体感をしてみたかった。なぜならそここそが1930年(昭和5年)11月28日に、銀座ホリウッドの女給であった当時19歳(満年齢17歳)の田辺あつみと、帝大の学生であった津島修二(太宰治)22歳が、カルモチン(睡眠薬)を飲み自殺を図った場所であるからだ。結果、その自殺で、田辺あつみは死亡、太宰は生き残り、恵風園に収容された。
この自殺については、太宰の著書『道化の華』や、『人間失格』などの多くの話に出てくる。もっとも、鎌倉での入水自殺って表現が多く、実際の睡眠薬での自殺とは異なる点も多いが……。
江ノ電腰越駅から徒歩で5分ぐらいの場所に、小動(こゆるぎ)神社がありそこいら一帯を小動崎という、ちょっとした小山になっている。鳥居をくぐり、参道から階段を上りきるとそこに小動神社があった。こじんまりとした神社で、とりわけ何か秀でるところがあるようにも感じられない神社と言ってもとくだん差し支えなかろう。

祠に向かって左手の岬の突端部分には、その景色を眺望できるように観覧スペースを設けてある。快晴だった今日は、相模湾が一望出来るて、左手には三崎方面、右手には江ノ島が間近に見え、その遠く後ろには富士山がその存在を大きく見守っていた。その風景はまさに絶景なり絶景なりと小喜びして、しばしご満悦。

この観覧スペースから先は断崖絶壁になっており、その下に畳岩があるはずなのだが何処を探そうにもその経路が見つからない。周囲は、金網で防護されて進入禁止の看板があり、鬱蒼と藪に覆われてとても進めそうにもない。その畳岩に行くのを今日の一番の目的としていたが、これでは諦めざるを得ないのだろうか……。

参道を一旦降りて、鎌倉方面に国道を進み、海岸を下ってみると小動崎周囲を添って岩場伝いに歩いていけば、畳岩にまで辿り着けそうな感じもするので、行けるところまで行ってみた。ここで畳岩をこの目で見ないのは、この先も悔やまれると思い、果敢にもチャレンジした。ごつごつとした大きな岩場をひょいひょいと渡り歩く。割り合い身軽じゃないか!ってこれならば行けるか!って思っていた矢先、畳岩が近づけば近づくほど、岩と岩の間隔は広くなり、また波に濡れている部分が広くなってくる。苔なので、足元も滑りやすくなっているため岩畳目前5mぐらいの場所で、これ以上、進むと海に落ちると判断して、岩畳上陸は断念した。

しかし土地などは、78年前と今でも早々には変わりが無いように思うのだが、当時の2人はどうやってこの岩畳に辿り着いたのだろうか。たとえ干潮の日であり、海が引けていたとしても、女は着物姿だったらしいので、あそこを歩いたとは思えない。当時はもっと別のルートがあったのだろうか?そんな想像ばかりが気になってしかたない。

そしてそこからすぐ裏手に「恵風園療養所」がある。いま現在は「恵風園胃腸病院」となっており、当時は木造であった建物は、鉄筋コンクリに変わっているが場所はここで間違いがなかろう。昭和5年当時は、結核患者のための療養所として、日本初の日光浴当を取り入れた画期的な場所であったらしい。
なぜ太宰がこの地を選び、自殺をしたのかはよく分りはしないが、当時は新橋から東海道に乗り、鎌倉で降りて、江ノ電に乗りかえ、腰越駅から歩いてこの地を思いを詰めて歩いたと考えると、感慨に耽ってしまう。
今回の太宰を感じる旅「鎌倉編」は、東京紅團というサイトを主に参照させていただきました。
また、恵風園療養所の写真のリンクの他、太宰治の心中3部作の『七ヶ浜心中』の著者である長篠康一郎さんのサイトや本も事前に購入し、熟読してから足を運んだ次第です。
最後に、折角の鎌倉散策なので、海の幸も堪能しようと刺身定食にビールで乾杯をした。新鮮で大ぶりな刺身はどれもこれもが美味しくて、大満足でご満悦。自宅から2時間で、このような新鮮な刺身が食べれる地は贅沢で羨ましいなぁ。

主に向かった先は、小動神社と、その下にあるであろう岩畳。そこから程なくいった場所にある、恵風園という病院。これらはみな、太宰を語るうえでの外せない重要なターニングポイントになる場所で、いちどこの目で体感をしてみたかった。なぜならそここそが1930年(昭和5年)11月28日に、銀座ホリウッドの女給であった当時19歳(満年齢17歳)の田辺あつみと、帝大の学生であった津島修二(太宰治)22歳が、カルモチン(睡眠薬)を飲み自殺を図った場所であるからだ。結果、その自殺で、田辺あつみは死亡、太宰は生き残り、恵風園に収容された。
この自殺については、太宰の著書『道化の華』や、『人間失格』などの多くの話に出てくる。もっとも、鎌倉での入水自殺って表現が多く、実際の睡眠薬での自殺とは異なる点も多いが……。
江ノ電腰越駅から徒歩で5分ぐらいの場所に、小動(こゆるぎ)神社がありそこいら一帯を小動崎という、ちょっとした小山になっている。鳥居をくぐり、参道から階段を上りきるとそこに小動神社があった。こじんまりとした神社で、とりわけ何か秀でるところがあるようにも感じられない神社と言ってもとくだん差し支えなかろう。

祠に向かって左手の岬の突端部分には、その景色を眺望できるように観覧スペースを設けてある。快晴だった今日は、相模湾が一望出来るて、左手には三崎方面、右手には江ノ島が間近に見え、その遠く後ろには富士山がその存在を大きく見守っていた。その風景はまさに絶景なり絶景なりと小喜びして、しばしご満悦。

この観覧スペースから先は断崖絶壁になっており、その下に畳岩があるはずなのだが何処を探そうにもその経路が見つからない。周囲は、金網で防護されて進入禁止の看板があり、鬱蒼と藪に覆われてとても進めそうにもない。その畳岩に行くのを今日の一番の目的としていたが、これでは諦めざるを得ないのだろうか……。

参道を一旦降りて、鎌倉方面に国道を進み、海岸を下ってみると小動崎周囲を添って岩場伝いに歩いていけば、畳岩にまで辿り着けそうな感じもするので、行けるところまで行ってみた。ここで畳岩をこの目で見ないのは、この先も悔やまれると思い、果敢にもチャレンジした。ごつごつとした大きな岩場をひょいひょいと渡り歩く。割り合い身軽じゃないか!ってこれならば行けるか!って思っていた矢先、畳岩が近づけば近づくほど、岩と岩の間隔は広くなり、また波に濡れている部分が広くなってくる。苔なので、足元も滑りやすくなっているため岩畳目前5mぐらいの場所で、これ以上、進むと海に落ちると判断して、岩畳上陸は断念した。

しかし土地などは、78年前と今でも早々には変わりが無いように思うのだが、当時の2人はどうやってこの岩畳に辿り着いたのだろうか。たとえ干潮の日であり、海が引けていたとしても、女は着物姿だったらしいので、あそこを歩いたとは思えない。当時はもっと別のルートがあったのだろうか?そんな想像ばかりが気になってしかたない。

そしてそこからすぐ裏手に「恵風園療養所」がある。いま現在は「恵風園胃腸病院」となっており、当時は木造であった建物は、鉄筋コンクリに変わっているが場所はここで間違いがなかろう。昭和5年当時は、結核患者のための療養所として、日本初の日光浴当を取り入れた画期的な場所であったらしい。
なぜ太宰がこの地を選び、自殺をしたのかはよく分りはしないが、当時は新橋から東海道に乗り、鎌倉で降りて、江ノ電に乗りかえ、腰越駅から歩いてこの地を思いを詰めて歩いたと考えると、感慨に耽ってしまう。
今回の太宰を感じる旅「鎌倉編」は、東京紅團というサイトを主に参照させていただきました。
また、恵風園療養所の写真のリンクの他、太宰治の心中3部作の『七ヶ浜心中』の著者である長篠康一郎さんのサイトや本も事前に購入し、熟読してから足を運んだ次第です。
最後に、折角の鎌倉散策なので、海の幸も堪能しようと刺身定食にビールで乾杯をした。新鮮で大ぶりな刺身はどれもこれもが美味しくて、大満足でご満悦。自宅から2時間で、このような新鮮な刺身が食べれる地は贅沢で羨ましいなぁ。

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